2002年 道の会「聖地の旅」勉強会 第1回 

 [ 巡礼のこころ ]

道の会の勉強会は、

  聖地巡礼に興味のある方

  すでに聖地へ行かれた方

  聖地へ行きたいと思っている方

  これから行く機会のある方

など、だれでも参加していただける勉強会です。勉強会での準備の歩みを通して、私たちが最終的にはイエス様に出会う、その出会いが深まることを願っています。
 ひとりでやっていると長続きしにくいですが、多数の人々と時を共有して、何かを学び、何かに気づいていくことにより、お互いの支えにもなります。
大切なのは、そういう機会を受身的に使うのではなく、積極的に使うことが大切です。せっかく勉強会へ行くのだから何かを学んでやるぞ、何かに気づいてやるぞ、これをちょっと読んでおこうかな、と、積極的にこの定められた年10回の時を使い、イエス様への私たちの歩みが思いが、ぐっと深まる、そういうひとときになれるきっかけになればと思います。
 もし、何の準備もしないで、聖地巡礼の旅に出たとすれば、日本とは違う世界ですから未知との出会いの驚きはあるでしょうが、表面的な驚きでしかないかもしれません。聖地について知っていれば、知識があれば、気付きがあれば、期待があれば、関心が深ければ、それだけ深く感じるのではないでしょうか。あらかじめ私たちの思いを、興味を、関心を掘っておくことは、プラスになると思いませんか。

 私たちは先ほど、ガリラヤの風かおる丘で〜、を歌いましたが、ガリラヤ湖を目の前にした時、私たちはほっとする思いを持つに違いありません。あれだけ乾燥した大地にあって、あれだけの豊かな水を見るときに、私たちは癒される思いがするでしょう、ああ、これがガリラヤ湖か、と。次から次へ表面的に見るのではなく、ガリラヤ湖でいったい何があったかを知ることです。イエス様と弟子たちの出会いがあった、ペトロたちは漁師だった、あのガリラヤ湖のどこかです。主はそこで彼らと出会っていかれました。
マタイ418節に、
  イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられる時、シモンとシモンの兄弟アンデレが
  湖で網を打っているのをご覧になった。かれらは漁師だった。
   イエスは「わたしに付いてきなさい、人間を捕る漁師にしよう」と言われた。
   ふたりはすぐに網を捨ててしたがった。
とあります。
 ペトロにとってガリラヤ湖は忘れられない場所でしょう、主が私に声をかけられた、あのときから私の人生は変わった、そういう場所になっているでしょう。
 私たちはそこで何が起こっていったのかを少しでも学んでおきたい、そしてこれがガリラヤ湖です、と言われた時に、ああ、ここか、ああ、ここで主とペトロとが出会っていかれたのか、ああ、ここでペトロが「さあ、ついておいで」と主に招かれたのか、ということを思い起こせるだけの知識を持っていたいと思います。

− 終わり −

 日本と異なる環境の人々を理解するためには、そこの民族の歴史、地理、気候などを知っておかなくては、彼らを本当に理解することはできないでしょう。イスラエル、そこはイエス様が生きておられた世界、どんなものであったのでしょうか。聖書を読むと、結婚式はでてくる、お葬式はでてくる、雨の話はでてくる、風の話もでてくる、雪の話は出てこないですね。あそこにはあそこならではの気候があるのです。物の考え方があるのです。

 たとえば、「お金を湯水のように使う」というと、私たちの感覚だったら、「まあ、何という浪費」と考えるでしょう。しかし、この感覚は世界共通ではありません。湯水のように使うというのが、「まあ、浪費」と考えられる世界は、水がただの世界です。イスラエルで、お金を湯水のように使うと、「ああ、それは結構。そんなに大切に使うのですね」と、こうなります。これは気候の違い、文化の違い、物の考え方の違いで、これを少しでも分かっていたら、物の捉え方が違ってくるでしょう。

 この勉強会という機会を使って、私たちはイエス様が生きられた世界への興味と関心と理解とを深めたいと思います。そしてそれを通して、少しでもその中に生きて死んでいかれたイエス様に触れてみたいと思います。そういう欲張った思いで、この1年間の勉強会をご一緒に過ごすことができればと思います。

 エルサレムの聖墳墓教会へ行かれたとき、「おお、これがイエス様のお墓か、考えてみれば今までイエス様のお墓があるなんて思いもしなかったけれども、確かに死んで葬られたっていうのだからそうだろうな。ああ、それにしても大理石で立派なお墓だな、こんな立派なお墓だったのか」で終わってしまっては悲しいと思います。イエス様はあんな立派なお墓には葬られませんでした。聖書に、「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」(ヨハネ19.40)とあり、また、「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」(マタイ19.41-42)とあります。

 ユダヤ人の準備の日と、墓が近かくてそこに納めた、ということとどうつながるのでしょう。これも知識がないとまったくつながりません。安息日が始まる前の日、それが準備の日で、今で言えば、金曜日の朝から準備の日に入っているのです、金曜日の夕方から安息日が始まりますから。そこに、園があり、まだ誰も葬られたことのない新しい墓があった。皆さん、あのイエス様のお墓に行かれたらならば、思い出してください。ああ、このお墓はあとになってつくられた、立派に作り直されたのだな、もともとはこの園の墓、石切場がそこにあった、石を切り出してその石を建物に使った、そこの石切場の跡を使ってお墓になっていた。そこが墓地になっていたのだな、と。イエス様のお墓を取り囲むようにして出来ている大聖堂の隅を覗いて見てください。そこにはイエス様とは関係のない墓がまだいくつも残っています。あれはなにを意味しているのでしょう。そのあたりが墓地であったということです。たまたまその一つがイエス様の墓になったということではないでしょうか。イエス様のお墓はいまは町の中ですが、イエス様の時代にはこの石切場、ゴルゴタは町の外、城壁の外だったのです。これが時代とともに変わっていったのです。
  少しずつ学びながら、イエス様への私たちの関心が、イエス様への理解が深まりますように、そしてなによりもイエス様への私たちの思いが感謝と信頼とイエス様を思う思いが深まることを願いたいとおもいます。
 人生の中で聖地巡礼が一度でも出来るということは、とても恵まれていると思います。その機会を、いつそれが来るかわからない方もおられれば、確かにこの巡礼に行こうと思われている方もおられるでしょう。でもこのかけがえのない機会を使いながら、私たちの見ること、触れること、感じること、匂うこと、こういう五感を使いながら、見えない方への思いを深めることができればと思います。私はそのくらいの思いで、この道の会の勉強会に参加させていただいています。皆さんもそれぞれの思いでここにご出席くださっているここと思います。
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お話:鈴木信一神父様
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